ご飯をどうしようかと考えているうちにちょっと体調が悪くなったから、「おれの家のチャーハンはラディカルだから白米を焼いただけだけどそれでも良い?」と言っている、ロビンには帰ってもらった。
ちょっとした買い物をして、家で「ちびまる子ちゃん」を見る。まる子がヨガを花輪君に習う回。見ていると懐かしくて泣きそうになる。お母さんがあそこまで完璧な主婦で、女言葉を使うアニメなんて、もう今から新しく作ることはできないだろう。ヒロシのだらだらした感じも、無理だろう。インドへの単純な憧れとか単純な異国情緒も使えないだろう。このあいだ、テレビでチュートリアルの徳井がヨギータのネタをやってたとロビンが言ってた。そういうのは少しずつ廃れていくだろう。見た瞬間、「あ…!」と思うから。自分は正しさというよりも、この「あ…!」が邪魔だなと思う。
「画面見てなくても、声聞いてるだけで泣けてくるね」
って小野寺が言っていた。

夜ご飯は海鮮あんかけチャーハン。あんかけを作っているあいだにチャーハンが冷めるから難しい。でも業務スーパーのシーフードミックスは安くて便利だなと気づいた。味はわりとうまくできた。食べて少しして気づくとソファでふたりとも寝ていた。

ロビンといた時に宅急便が来て、母親からだった。人生初の仕送り。うどんが入ってる。少し高そうなみかんが入ってる。昔行きつけのパン屋でよく飲んでたクランベリージュースが入ってる。小学校の頃から、特に土日は家でご飯を作らず、昼前まで寝て、おれがドトールとかパン屋におつかいに行くのが習慣になってた。大学を卒業して一人暮らしを始めるまで続いた習慣。仕送りの内容はどうでもよく、そういう習慣が入っている、ということが大切なんだな。と思う。

大江健三郎『M/Tと森のフシギの物語』を読む。まだ冒頭50ページ。祖母から聞いた話を語るという体裁をとっていて、「懐かしさ」「恐怖」という感情が扱われる。インディアンの民話研究で出てきたというトリックスターという「役割」が、亀井銘助という村に実在した男の昔話と重なる。銘助が生まれ変わって童子として村を助けるという話と、祖母の話を通して自らの生が生きているこの私だけにとどまることをやめるということが繋がってるというのが一番表面的な部分だろう。一昨日あたりにラカンを読んでいて、そういう、連綿と受け継がれるものとしての知というもの、それが私を構成するという知のあり方、みたいなことをぼんやり考えながら読む。

あわせて印象深かったのは、谷間の村で生まれ育った祖母が、幼い頃、直接童子の母親からそれを聞いた、といったことです。大川原の清掃と、小屋掛けの取り壊しのほぼ終わった段になって、一軒だけ正式に建てた家として残されていた世話役たちの本部で、童子は母親と休んでいました。そのうちまた気分が悪くなったように横になった童子の身体が、板張りの床の、そこだけ一枚畳を敷いてある所から、祖母が自分の手で示した仕方では、広げた拇指から小指の先までほどの高さ、頭から踝まで水平に浮かびあがっているのに、母親は気がつきました。もうその時はすでに、童子の身体の色あいが薄くなり輪郭はぼんやりしていたともいうのですが、それを心がかりに思う間もなく、童子は宙づりの恰好のまま、背骨を軸にして、ゆっくりと回転しはじめたのです。__そういうことをしているならば、さらに気持ちが悪うなりますよ! と母親が嗜めながら、廻る身体に手をふれると、同時の身体はグラグラして回転も遅くなるようでした。しかしそれでも手を離すともとどおりにになったばかりか、いったん始まった回転はしだいに加速して行き、そのうちビュンビュン唸りながら回転する童子の身体は、母親の手をはじきとばして、そのあまりの速さに全体がボーッと浅葱色に光る繭のように見えていた童子は、スッと消えてしまいました。
__わしは銘助さんと永い話がある。母様は、急いで追いかけることはないよ! 長生きしてくださいや! という鈴の鳴るような声を、見えなくなった童子は残して、それは脇の世話役も聞いたそうです。
母親の話は面白いものの、あまりに不思議なところは、子供の聞き手を面白がらせるために部分的に作られた話ではないか、とも思ったことを覚えています。それでいてなんとも懐かしく、引きつけられるようであったのでした。この【それでいて】(原文傍点)ということが、大切な気がしたことも覚えているのです。これはあらかた祖母様の作り話だと思うが、【それでいて】懐かしく引きつけられる……
懐かしいと感じとること。それも自分が直接にかつて経験したことのよみがえりというのではないが、しかも懐かしい。それはこの森のなかの谷間で、はるかな昔に幾たびも起こったことだからではないか? そのように僕は感じたのでした。そのように考えた、というのではなく、そのように感じた、ということも大切だと思います。
(P25-26)

これは何度も繰り返される、「昔のことなれば無かったこともあったことにして聴かねばならぬ」という言葉を、「僕」が繰り返し唱えたことによる。作中では、祖母がそれを呪文のようにしていたのではないかと恐れていたと書いてあるけど、呪文は「僕」に降りかかって、「懐かしさ」としてあらわれてる。

祖母の死について、ひとつだけ父親が僕にいった言葉。__祖母様は、身体が強健であったから、死ぬまでに永く苦しまれた。年をとって死ぬ際には、身体を弱めておかねばならぬなあ。

これはめっちゃ些細な部分として書かれているけど、大切だ。死ぬ時の苦しみは、生きてきた時間の堆積を表しているように、ピンピンしてる周囲には思える。それは生きていたあいだの徳とか罪とかじゃない。小学生の頃に母親が病気をして、死の間際までいったときのことを思い出すたびにそう思う。徳も罪も人間が決めたことで、「私」に堆積するのはそれじゃない。じゃあおれたちに何ができるのか? そうやってちょっとでもコントロールしようとするのが悪いクセだ。せめて「身体を弱めておく」くらいのことしかできない。とはいえ、自分から身体を弱めておくことなんかできない。